2018.01.01

 弟子屈町開発の上で、温泉の果たした役割は大きいものがある。

 本町の最初の居住者である本山七衛門氏が、塘路に居住して鹿捕りをしているうちに弟子屈に温泉があることを知った。しかも湧出量が多かったことから、1883(明治16)年、猟を兼ねて夏の期間だけ住む温泉宿を造ったが、1885(明治18)年には、ついに一家を挙げて居を移したのである。

 移住の動機のもう一つは、標茶に集治監(監獄)の建築が始まったことで仮住まいの温泉宿が急に多忙となり、本格的な営業の必要に迫られたからであった。

 本山氏以前、1882(明治15)年に亀田氏という人がいたとの言い伝えもあるが、それを裏付ける資料が今のところ見当たらない。

 1886(明治19)年には、福山ウメさんによって丸米旅館が建設され、まもなく土沼寅吉氏(土沼助吉氏の先代)が引き受けた。釧路川岸の雑草の生えた湿地に急に2軒の温泉宿が誕生し、旅客の足を止めるようになった。

 弟子屈温泉がようやく世の中の注目を集めたころ、1887(明治20)年には安田鉱山の精錬所が標茶にでき、鉄道も開設、1890(明治23)年には北見への国道開通と矢継ぎ早の開発も大きな効果となって、弟子屈町は急に発展していくのである。

 一時、1万3,000人を超えた本町の人口は、残念ながら減少を続けているが、湯の町の橋から見えた情緒ある温泉の復活を夢見ている町民は多い。

(弟子屈町史1号から)

てしかが郷土研究会(菊池)