歴史写真館NO.31 天皇、皇后両陛下の行幸啓

 大東亜・太平洋戦争の敗戦の翌年、昭和21年は天皇陛下自ら神格の否定、即ち『人間宣言』の詔書から始まりました。「(略)朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ズルモノニ非ラズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族トシ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。(略)一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」。そして正月22日、戦後最初の歌会始が行われます。〈ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松そを丶しき 人もかくあれ〉と天皇陛下は詠まれました。「敗戦後の耐え難き辛苦に耐えて、厳寒の雪中にも緑の色を変えない松の雄々しさに、どうか人々も学んでほしい」との願いでした。

 昭和20年8月15日正午、天皇陸下の玉音放送によるポツダム宣言受諾との「終戦の詔書」を、国民一人一人が、思想、立場の違いをこえて、深い感慨を以て受け止めてから、昭和27年4月28日、その宣言の受諾に伴って発せられた命令に関する件が廃止されるまでの6年8カ月余白、日本は占領軍の監視下にあり、そのことを『閉ざされた言語空間』と亡き江藤淳は表現しました。それ故に日本人にとって4・28は主権回復の日又は、独立記念の日として記憶に留め置くことは肝要と思います。

 かつて明治天皇が、維新後各地を巡幸して人心の安定をはかった例にならない、荒廃した全国各地を、昭和天皇が巡幸することで、国民を慰撫しようという宮内省の計画が実行に移されます。第一回は昭和21年2月19・20日で神奈川県の川崎・鶴見・横浜・浦賀・久里浜を巡幸しました。右手でソフト帽をおあげになるポーズや独特のアクセントで「あっ、そう」とうなづかれるしぐさが話題になりました。弟子屈・阿寒への巡幸は昭和29年8月14・15・16日でした。札幌での「国民体育大会」の開会式に臨席され、その後、道内各地で国民の慰撫に向かわれたその中の一つとしてでした。

 弟子屈での日程は、8月14日、12時47分/川湯方面より弟子屈駅御着。12時52分/弟子屈小学校に設けられた奉迎場にて町民奉迎。13時12分/釧路拓殖実習場のご視察。13時55分/摩周湖第一展望台にてご展望。14時35分/札友内小学校ご視察、ご休息。16時40分/阿寒双湖台ご視察。17時25分/阿寒湖荘ご宿泊のため御着。翌15日はご休養。16日、10時00分/阿寒湖荘御発。12時00分/釧路方面に向けて弟子屈駅御発。

 陛下が訪れた釧路拓殖実習場は、昭和10年摩周山麓、現在のゴルフ場あたりに設立されました。昭和初年、南米移民の道が断たれたことにより再び北海道開拓を重視し、開墾作業や寒地作物の耕作技術と営農の実際を内地農民に指導する機関の必要から道庁が十勝・帯広に次いで設立したものです。道内の次・三男の入場が許されなかったことに非難が集中し、翌年から道内の青年にも入場が許されるようになります。東北海道開拓のための土台的な役割を十分果たし終え、昭和36年3月31日を以て廃止されます。札友内小学校は、大正10年特別教授場として出発。昭和5年、尋常小学校に昇格。昭和23 年、敗戦による引揚者や拓殖農民の入地により児童数が増加し、3学級編成となります。天皇陛下をお迎えした田村弦蔵校長は、50周年記念誌の中で「天皇、皇后両陛下のご視察の決定。この問題は私にとっても礼友内にとっても一生一代の難事であったと思います。…」と、逆べています。『天皇陸下行幸記念碑』が建てられたのは昭和44年9月15日。札友内部落の人たちの総意でした。そして2年半後の昭和47年3月31日を以て札友内小学校は閉校となります。

てしかが郷土研究会(加藤)

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