歴史写真館NO.23 松浦武四郎を蝦夷地に 駆り立てたものとは

 ペリーが浦賀に来航する35年前、1818(文政2)年に武四郎は、伊勢(現在の三重県)の津市と松阪市の間にある一志郡の村で4男として誕生しました。松浦家は土地の郷士でありながら名家でもあり、父は近在で知られた国学者でした。

 諸国の人文・地理を極めようと、独立自尊を志し家を出たのは17歳の時。出家したこともありますが、見聞を広めるため異常な情熱を持って諸国を歩き回りました。長崎に赴いた折、町役人で文人の津川文作からロシアが蝦夷地を窺(うかが)っているという話に身を震わせ、翻然と自分の使命は、その地を調査することにあると悟ります。蝦夷地に渡るにあたって、樺太へ赴任する幕臣の草履取りになって供をしたのが最初で、その時28歳。宗谷岬から樺太に渡り、東西の海岸をつぶさに歩き、記録とスケッチを残しました。樺太での調査を終えると、宗谷岬に戻って幕臣たちと別れ、一人オホーツク海岸を南下し知床に着きます。旧知である水戸藩の重鎮で尊王攘夷の理論的指導者・藤田東湖の歌を知床の山から国後島や択捉島に昇る朝日を拝み高々と口吟します。《玉鉾の みちのく越えて見まほしき 蝦夷が千島の舎のあけぼの》と。“陸奥”をこえて千島の雪のあけぼのを見たいものだ”という東湖のあこがれを自分は実現した、という喜びの表現でした。以後5回、武四郎は蝦夷地を水戸藩や幕府の要請で調査しています。

 「蝦夷で日を過ごすにはその地に住み着いているアイヌを範とすべきだ。それに彼らの生活に溶け込むことが必要で、蝦夷(アイヌ)語を習得せねば過ごすことはできぬ」と武四郎は語り、アイヌ民族に対する深い理解を示します。

 テシカガの調査は最後の6回目、1858(安政5)年4月のことです。釧路に上陸、阿寒を越えて網走を抜け、斜里を通って根室領の方から摩周に登り、西別岳に登って虹別から弟子屈、屈斜路路湖を調査し、釧路川を下ったときの「久摺日誌」4月13日に「夜テシカガに宿したるに、更るまヽ爐の火も消しかば、いかにも寒く寝難きに、起出し見たりしかば、十三夜の月雲間に洩出る影に能く見れば、庭に一本の櫻の有けるが、今を盛りと咲けるに、雪時々降来るさま、実に異 郷の趣ぞなしぬ」と記し、『さえわたる 月に起き出て 眺むれば 花ふきまぜて 淡雪ぞふる』と詠みました。雪月花が読み込まれ日本人が最も好む心象風景です。

 明治に入り、武四郎は北海道開拓使に仕えますが、アイヌ民族に対する開拓使の不当な扱いに鋭く対立、その職を辞します。幕末の動乱期、時代は武四節を必要としましたが、武四郎の思いを描いた普遍的人類愛が理解されることは、時到らず時期尚早でした。

てしかが郷土研究会(加藤)

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