2018.01.01

 明治維新第一の功労者で、参議、唯一の陸軍大将であり近衛都督でもあった西郷が明治6年の政変(征韓論)で敗れたことで、一切の顕職をなげうって薩摩に帰郷します。「英雄」と呼ばれる歴史上の人物は、洋の東西を問わず野心にあふれ、人の上に立とうとします。権力把握の過程で個人のモラルや道義は、むしろ邪魔になることすらあります。むろん西郷も倒幕の過程でさまざまな謀略を用いたであろうことは、さまざまな資料からうかがえますが、その果実である権力には驚くほど執着が薄かったと思われます。

 西郷の特異性を育んだ薩摩藩の教育システムは、『郷中』と呼ばれます。 『郷中』には特定の教師はいず、年長者が年少者に教えます。少年たちは儒学を中心に「負けるな、嘘を言うな、弱いものをいじめるな」と教えられ、卑怯と言われることを最大の恥辱としました。「道義の巨人」西郷の人格はこのような教えを受ける中で培われました。

 卑怯を憎み、弱いものをいたわる武士教育は会津藩の「什(じゅう)」をはじめ各地で行われていました。

 路線内に侵入した女性をかばって死亡した警察官・宮本邦彦警部の美談が連日報じられたように、江戸時代の武士教育以来のモラルは、地下水脈のように日本に確かに存在しています。鹿児島・南洲墓地に眠る西郷は、日本人にモラルや道義の大切さを忘れるなと語りかけているように思えてなりません。

 『てしかがの蔵』にある西郷隆盛の首像画は多数造られた複製画の一枚です。御料局の嘱託医師として明治42年に開拓が始まったばかりの弟子屈村に赴任され、昭和13年突然の心臓発作で死去されるまで、村医としてその生涯を弟子屈のために尽力された長谷部徳美先生が所有されていたものです。「今でも感謝しているのは長谷部先生のことです。診て貰ってもほとんどの農家は診察料が払えない。長谷部先生は、いくら貸しがあっても二つ返事で往診してくれたのです。」と故合由末廣氏は記しています。長谷部先生も又「道義の人」でした。

てしかが郷土研究会(加藤)