2018.01.01

 永山在兼は、道庁を昭和10年11月で依願退職し、その後、川崎市役所へ、陸軍大佐として中国大陸へ、そして八幡市役所へと勤めを替えています。 昭和18年、戦時に即応するために設立された郷里の鹿児島市立工業学校へ乞われて数学教師として奉職します。しかし、昭和20年5月17日、前日まで教鞭を取っていた永山は、心臓麻痺で56歳を一期として亡くなりました。

 同年6月の空襲で全てを失った妻の静江さんは、永山の遺骨を胸に3人の娘さんの手を引いて終戦直前の大混乱の中、弟子屈に帰って来ます。そこには、永山が家族のために残しておいてくれていた温泉のある大きな家がありました。それが旧電気通信省共済組合弟子屈保養所「双岳荘」(場所は6町内で、現在は(株)高橋組が所有し、老朽化した部分は解体し保存されています)の前身でした。

 保養所は、昭和24年1月に正式に開所しますが、それ以前の昭和22 年12月に土地と建物を買収し、静江さんは保養所長として、昭和34年3月まで訪れる方々のおもてなしをなさっています。国内の旅行が緩和され組合員の利用客が増加し、昭和28年9月に全面改築、その後も増築されました。

 「双岳荘」の名は誰が付けられたのかは分かりませんが、永山在兼が命を 懸けた阿寒横断道路の「双岳台」は『永山峠』と呼ばれていました。

参考文献:種市佐改著『阿寒国立公園の三恩人』

弟子屈の電報電話局編さん室編『弟子屈の電報電話』

てしかが郷土研究会(松橋)