2018.01.01

 1999年、三重県松阪市に住む1組の夫婦が屈斜路コタンにやってきま した。1年ほどかけて北海道内を巡っている途中でした。車にたくさん積み込んだ資料のほとんどは、同郷の偉人で北海道の名付け親といわれる松浦武四郎が著した書物。江戸幕府の命を受けて蝦夷地の探査を行った彼の足跡をたどる旅でした。

 1858(安政5)年、松浦武四郎は屈斜路路湖畔を訪れています。翌1859年に出版した「久摺日誌(くすりにっし)」や「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(ぼごとうざいえぞさんせんちりとりしらべにっし)」などには、地元に暮らすアイヌがこぐ丸木舟に乗って湖上の案内を受けたことや、地名、人名などが細かく記録されています。

 屈斜路コタンアイヌ民俗資料館に立ち寄った夫妻は、名前が記録されていたアイヌの子孫が今も暮らしていることを知ります。一方、アイヌの子孫たちは 先祖の名前を語り継いではいたものの、書物に記載されていたことを知りませんでした。明治時代の初め、アイヌに対する「創氏改名」が布達され、アイヌ語の人名を日本名に変えざるを得なかった歴史的背景を考えれば、人物を特定できたことは感動的な出来事だったのです。

 2003年、屈斜路コタンにあるヌササン(アイヌの祭壇)の横に、引き合わされた絆の証となる石碑が建ちました。140年あまりの時を超えて再会を果たした現代の松浦武四郎ともいうべき高瀬英雄氏(現・松浦武四郎記念館名誉館長)とアイヌの人々とのなの触れ合いは、今も続いています。

てしかが郷土研究会(斎藤)