2018.01.01

 1876(明治9)年、佐野孫右衛門によって試掘されたアトサヌプリの硫黄は、 1885(明治18)年に銀行家・山田慎に経営者が変わり、規模を拡大して採掘が行 われました。山田は、硫黄を山元から標茶の精錬所まで搬出する手段として、それまでの馬に代わり鉄道輸送を考えました。しかし、資金難から1887(明治20) 年、硫黄採掘の経営を実業家・安田善次郎に譲り、鉄道は同年11月に安田の手によって敷かれることになりました。これが釧路鉄道で、北海道で2番目の鉄道です。

 鉄道に使われたレールはドイツ製で、25ポンドレール(資料には25斤とか25 ポンドとある)と呼ばれていました。これは1ヤード当たりの重さが25ポンド ということで、キログラム・メートルに度量換算すると、11、3kg/mになります。『丸善金属重量表』によると、これに近いレールの寸法は上の図のとおりで、現在釧網線で使われている50kgレールと比べると小さいものでした。

 硫黄採掘は、採掘量や品質の低下、世界の硫黄相場の影響で、1896(明治29)年に採掘休止となり、1897(明治30)年には鉄道も廃止となりました。1898(明治31) 年に鉄道会社を解散、鉄道の施設は北海道の新しい鉄道敷設の工事用に利用されることになりました。

 右写真のレールは『丸善金属重量表』による日本工業規格の寸法と違うため、 当時のレールと断定できませんが、もしそうだとすると貴重な弟子屈の歴史・ 産業遺産です。

てしかが郷土研究会(松橋)