2018.01.01

 1993(平成5)年、日本で米が不足して外国産の米を輸入し、その外国産米と一緒でないと日本産の白米が買えない、ということがありました。日本人の食味に合わない外国産米に、ぜいたくなことですが困ったことがありました。

 開拓に入った人たちは、秋の収穫や造材現場で得たわずかな収入で冬を越す食糧を貯蔵しなければ、雪で交通が途絶えてしまう山の中では不安があります。

 いつもは雑穀やイモで腹を満たしていた開拓者には、お米を俵で買うことは最高にぜいたくなことで、越年(おつねん)米が家に届いたときは家中が明るくなり、誰ともなくうれしくなってはしゃぎ出しました。

 その俵の中には、小さな盃が入っていました。盃は、精米した米屋の宣伝用ですが、この米を買ってくれた家に盃で喜び事があるようにとの、粋な思いが込められていたのでしょう。

 米俵は、食べ終わった後もまた役に立ったのです。防寒用の履き物は、アイヌの人たちが教えてくれたサケの皮の“ケリ”も重宝しましたが、本州(ないち)では育つ米が育たなかった北海道では、俵をほぐした稲わらで作る“爪子(つまご) にも欠かせない大切な材料となりました。

てしかが郷土研究会(松橋)