2018.01.01

 「最も日本人らしい日本人は?」という問にだれを思い浮かべるでしょうか。『古事記伝』を書いた本居宣長は「敷島の大和心をひととはば朝日に匂う山桜かな」と日本人と桜の絶妙な関係を言い当てていますが、桜を愛でる心が日本人の性ならば、西行法師ほど日本人らしい日本人はいません。

 西行法師こと佐藤義清(のりきよ)は、文治2(1118)年に武人藤原秀郷の嫡流である佐藤康清を父に、源清経の娘を母に誕生。18歳のころ皇居を守護する下北面の武士として仕え、妻子ある身ながら23歳で出家。その子別れの場面を『西行物語』は「ある年の暮れのこと、かれが覚悟を決めて家に戻ると、4歳の娘が縁に出てきて父を迎え、袖に取りすがってきた。父はいとおしさに胸をふたがれるが、それも煩悩のきずなよと思い直し、娘を縁の下に蹴落(けお)とした。下の方から鳴き悲しむ声がわきおこった。しかし彼は耳にもとめぬ風をして、部屋に入ってしまった。それを見ていた女房は、すでに夫の堅い決意を知っていて、嘆き悲しむ娘の姿を見ても驚く様子はなかった」と記しています。家庭に人となることを放棄し、家長の地位を放棄し、かといって本気で僧になろうともせず、生涯かけて約2千者の和歌を作りましたが、専門的な歌人になろうともしていません。また、東大寺修復のため寄付金募集といった勧進のような仕事にも手を染めますが、一途に勧進聖の道をあゆむでもありません。高野山で修行していたかと思うと、やがて伊勢に参詣(さんけい)し、「なにごとの/おわしますかは/知らぬども/かたじけなさに/涙こぼるる」と詠み、草庵を結んで神宮の神官に和歌の指導をしたりしています。仏道に身を入れるかと思うと、いつの間にか神道の世界でも悠々と心を遊ばせているといった風情です。勝手気ままといえば、これほど勝手気ままな生き方もありませんが、何ものにもとらわれない魂の奔放さが、その身の処し方の真骨頂です。

 西行法師は、桜の花を見てあくがれ出ていく心の不安と恍惚をほとんど呼吸するかのように詠っています。「よし野山/こずゑの花を/見し日より/心は身にも/そはずなりにき」「あくがるる/こころはさても/やまざくら/ちりなむのちや/身にかえるべき」。吉野の山桜を見ているうちに、心はいつしか漂い出て、心の重さが抜け出た後のような空虚な感覚が肉体の側に残り、それに反して浮遊していった心は花にたわむれているとの感性です。それはあたかも「不来方の /お城の草に/寝ころびて/空に吸われし/十五の心」と詠んだ啄木にも流れる日本人の通奏低音かも知れません。西行法師は、その生涯で桜を詠った和歌を230首残しました。

 かつて弟子屈にも奈良の吉野山のような桜の名所を育む試みがなされました。明治32年に第一次開拓移民として青木元右衛門氏ほか28戸が富山県射水郡から鐺別川沿いに入植し、弟子屈の開拓が始まります。元右衛門氏の長男で当時11歳だったのが貞行氏です。30年後の昭和4年、41 歳の青木貞行氏は標茶村長の席から衆望に迎えられて第9代村長に着任、地元出身者としては初の村長でした。その直後、釧網線が開通、翌5年に阿寒横断道路が開通、観光地弟子屈のまさに黎明期(れいめいき)にあたります。村の中に桜の名所を造ろうと発案し、自らの手で周辺の野山からエゾヤマザクラを集めますが、到底それだけでは足りず、鐺別川の上流の山野に分け入り、男と筏(いかだ)を使って桜の木を集め移植したのが『桜ヶ丘公園』の始まりでした。(次回へ)

てしかが郷土研究会(加藤)