2018.01.01

 池の湯「まつや旅館」の裏、湖面を背景に4体の石仏がこけむした石の台座の上にコの字に佇(たたず)み、1体の石仏の光背は崩れ落ち、歳月を感じさせます。これらの石仏は大正14年、空海ゆかりの真言宗西端寺(釧路市)の信徒の皆さんが四国88箇所霊場の移霊を発願したことに端を発します。移霊された霊場は、西端寺を1番目の札所とし、まりも国道(240号)沿いに阿寒に出、横断道路から弟子屈町内を巡り、塘路を経て釧路に戻るもので、88体の石仏に札所の番号と寺名を記し路傍に安置したもので、昭和3年に完成しました。弟子屈町内には屈斜路、池の湯、仁伏、川湯、美留和、弟子屈などに58体が安置されていますが、特に屈斜路方面に集中しています。

 四国と屈斜路には深い縁があります。屈斜路地区の開拓は、明治36年道南胆振(有珠、紋●等)地方の10戸の人々が入植したことから始まります。昭和24年に発行された『町史』には「この10戸の人々のうち現在残っている人は、組合長として率先入地した鈴木久次朗氏1戸である」と記しています。次いで明治44年に四国香川県が耕地面積に比較して、人口密度が日本一であるという理由から小田切所長が香川県で移民の募集をします。その結果、香川県を中心に四国各県から38戸の人々が募集に応じます。翌45年に再度移民募集が行われます。小田切所長は再び香川県に森枝子が茨城県に出向き、35戸の人々が募集に応じます。この中に当時6歳だった故合田末廣氏がいました。氏は「開拓使の話が広まり、北海道に行けば何とかなるという風潮がひろまったんだ。北海道で金儲けして、四国に又戻るということで、一家9人が他の家族50人と一緒に伊予の港を帆船に乗った」と記しています。

 四国一円を巡る「遍路」は815(弘仁6)年に空海が信仰の道場として開いたもので、その空海の足跡をたどる祈りの旅は、俳句の季語としても用いられています。元々は僧侶の修行とされていましたが、江戸時代に入ると庶民にも広く普及しました。死を意味する白装束には「同行ニ人」と記され、菅笠(すげがさ)をかぶり、首から輪袈裟(わげさ)を下げ、空海の分身とされる金剛杖を手にし、およそ50日かけて一周します。四国遍路には空海にまつわる奇跡の伝説が数多見られます。12番札所・焼山寺には強欲で空海の托鉢(たくはつ)を断った衛門三郎がわが子を次々と亡くし、僧が空海と気づいて遍路の旅に出、最後に焼山寺で空海に許される「遍路の開創伝説」。51番札所・石手寺には伊予領主の生まれたばかりの子供の手から衛門三郎とかかれた小石が多てきたという「生まれ変わり伝説」。24番札所最御崎寺には馬子が空海から塩鯖を所望されたが断ると馬の足が動かなくなり、馬子がお詫びに鯖を差し上げると、海に放った鯖が蘇生したという「鯖大師伝説」。遍路を巡る伝説はまだまだ尽きません。四国のみでなく伝説は全国に点在し2,668篇におよび、採録されない言い伝えの類を含めると、優に3,000を超すと言われています。835(承和2)年、62歳で空海は死を迎えます。その様子を司馬遼太郎は「空海の風景」の中で,「空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承され、今日もなお高野山の奥之院の廟所(びょうしょ)の下の石室において定(じょう)にあることを続け、黙然とすわっていると信じられている…」と記します。

 入定後、弘法大師となった空海から放たれた光が「摩周遍路道」の88体の石仏にも注がれていることを思うと、その佇まいゆえに湖岸の石仏に殊更、感慨を覚えます。

てしかが郷土研究会(加藤)