2018.01.01

 新渡戸稲造博士が英語でBushido the soul of Japan『武士道』を著したのは、日露戦争の5年前の1899年。当時の超大国ロシアは、地球の6分の1の面積を有し、日本の面積の60倍、人口は2.6倍。世界最強の陸軍は2倍、海軍は3倍でした。満州を20万近い兵力をもって制圧し、朝鮮半島をもうかがっていました。半島が制圧されれば、日本の独立と平和は風前のともしびです。1904(明治37)年2月4日の御前会議で、座して死を待つよりは出て日本民族の意地を示さんと、祖国防衛のため開戦を宣しました。ロシアはドイツとフランスの支援を得、日本はイギリスと同盟関係を結んでいましたが、問題は新興国アメリカの帰趨(きすう・動向) でした。味方にできないまでもせめて中立が、日本の日露戦争における最大の政略でした。御前会議後、筆頭元老の伊藤博文は腹心の金子堅太郎に「わが国が勝つと信じている者は陸海軍をはじめ一人もいない。何とか持ちこたえている間にアメリカの世論を日本びいきに盛りあげ、S・ルーズベルト大統領に日露の調停役を買って出てもらう以外に道はない。君はアメリカに詳しく、かつ大統領とも親しい関係にある。発奮してアメリカに行ってくれ」と懇願します。金子は拒み続けますが「この戦争に博文は命をかけた。君も死んだつもりで渡米してくれ」との熱意に、応諾せざるを得ず渡米。3月26日、高平小五郎駐米大使とともにルーズベルト大統領を訪ね、日本が文明と正義のために超大国ロシアとやむなく戦うことを決意したことを説明。大統領は忌憚(きたん)なく、日本が立憲君主制を採用してわずか15年であるが、個人主義と自由主義が著しく発展したと評価します。翌日の午餐(ごさん・昼食)会で大統領は「日本の文化・芸術については多少知っているが、日本人の根本精神についてはまだよく分からない。その点について何かよい本はないか」と質問しました。その時、高平大使が所有していた「武士道」が大統領に届けられます。

 それから70 日後の6月6日、再度午餐会に金子・高平両氏が招かれます。大統領は「あれを読んで日本人の徳性を初めて知ることができた。早速本屋に30冊注文し、それを知人、友人に読むようにプレゼントした」と。さらに「私の5人の子供に一冊ずつこの本を与え、よく読み、日本人のように高尚にして優美なる人柄と、誠剛毅なる精神とを涵養(かんよう・養成)するようにと、言い聞かせてしまったよ」と『武士道』を称賛。明治38年 6月、日本が攻勢をかけている状況の中、ルーズベルト大統領が調停に乗り出したことにより終結し、日本は辛くも戦勝国になります。

 新渡戸稲造博士は、第一高等学校長、東京女子大学長、国際連盟のナンバー2である事務局次長、貴族院議員を歴任しています。第一高等学校長時代の昭和7年夏、森本厚吉氏を伴い弟子屈を訪れ、御料局川上出張所の小田切栄三郎所長と再会します。札幌農学校の学友であり、共にクリスチャンでした。「太平洋の架け橋とならん」人と、生涯を土と共に生きた人との再会でした。小田切所長は、23年間にわたった「開拓指導者としての自分は、神の御心にかなったものであったかどうか」とその心情を打ち明け、新渡戸博士は「寒冷の地において畜産を取り入れたことは、実に先見性のなせる業である」とその功績をたたえます。翌日、夏休み中の弟子屈小学校の教室で新渡戸博士は講演しています。6年後「死に至る病」にかかるまで弟子屈にとどまった小田切栄三郎氏は、昭和13年7月13日、札幌で昇天。享年78歳でした。遺骨は分骨され、東京の多摩霊園と弟子屈の墓地に埋葬されました。多摩霊園の墓標には「なんじら/世にありては患難あり/されど雄々しかれ/われすでに世に勝てり」と記されました。

てしかが郷土研究会(加藤)