2018.01.01

 弟子屈に馬が入ってきたのは明治11年ころ、跡佐登硫黄山から硫黄の駄送で、明治19年標茶〜跡佐登に鉄道が敷設されるまで活躍します。

 本格的にばん馬としてサレキやプラウなどの外国製の農機具をひくようになるのは、明治29年から31年まで熊牛原野で操業した亜麻会社の農場でした。

 明治30年御料局農地に決定し、帝室林野局札幌支所川上出張所長として小田切栄三郎が赴任します。小田切は「川上御料地開拓設計書」のなかで、馬や牛・羊を取り入れた主畜農業を提唱し、ドサンコの雑種を「貸馬仔分方法」で移民へ貸し付けます。洋種馬を入れたのは、競馬によって馬になれていない移民の馬産への関心を高めるためでした。これが結果大成功で、弟子屈の馬が釧路競馬で優勝し、さらにその馬が帯広競馬に出走し優勝しました。

 その後も小田切栄三郎の所有馬が優勝するので、弟子屈競馬で勝った馬は「東北海道一」と呼ばれるようになり、競馬が盛んに行われました。

てしかが郷土研究会(松橋)